· 家族経営と承継 · 10 分で読めます

第5話

「お前たちの誰かに、できれば継いでほしいと思っている」

その選択肢は、ご家族の中だけですか

「お前たちの誰かに、できれば継いでほしいと思っている」

私が大学生の頃、帰省したときのことです。

家族五人が食卓に揃った晩に、父がそう言いました。

誰か一人を指して言ったわけではありません。三人兄弟の、誰にともなく、宙に向かって置くような言い方でした。

この一言が、私の家で交わされた唯一の承継の話です。

承継の話は、口に出しても答えが返ってきません

事業承継は、早めに話し合ったほうがいい。

よく言われることですし、正しいと思います。準備期間が長いほど選択肢は増えますし、急に決めれば無理が出ます。

ただ、現場で起きていることは、少し違います。

話し合われていないのではありません。

話は出るのです。ただ、答えが返ってこない。

親は言う。子は黙るか、はぐらかす。そして、いつの間にか別の話題になっている。

次にその話が出るのは、数年後か、あるいは、もう手遅れになってからです。

なぜ、そうなるのか。

私は長いこと、切り出し方の問題だと思っていました。

いまは、違うところに原因があると考えています。

父は、港の仕事をしていました

父は神戸で、港湾建設業の会社をやっていました。

防波堤を築いたり、テトラポッドを据えたりする工事です。公共事業を受注した会社から、下請けや孫請けとして仕事を受ける立場でした。

仕事が入ると臨時に人を雇い、多いときで十人ほどが動いていたと思います。

いちばん景気が良かったのは、私が小学校の高学年の頃でしょうか。

現場に連れて行ってもらったことが、一度だけあります。

作業着姿の人たちが、測量をしていました。携帯電話などない時代ですから、トランシーバーのようなもので、港から沖の船へ指示を出している。

見えないところで水面の下に石を積んでいく仕事だということを、そのとき初めて知りました。

食卓での一言

冒頭の言葉が出たのは、私が大学生になってからのことです。

久しぶりに東京から帰ってきたというので、食卓には神戸牛のステーキと野菜が並んでいました。神戸の家では、当時それほど特別なものでもありません。ただ、用意はされていました。

弟たちが何と答えたのかは、よく覚えていません。

私はこう答えました。まずは自分がどうしたいのか、進路や将来をはっきりさせたい。その中に選択肢としてあれば、継ぐことも考える、と。

そのうえで、できれば卒業後も東京の会社に就職したいので、いまのところ継ぐことは考えていない、と続けました。

母が横から、父に悪態をついていたのを覚えています。

「子供に継がせたところで、そんなに将来性がない」

父が何と返したかは、記憶にありません。

その後は、別の話題になりました。

いま振り返ると、あの食卓では三人が別々のことを言っていました。父は継いでほしいと言い、母は将来性がないと言い、私は東京で働きたいと言った。

誰も、噛み合っていません。

そして、噛み合わないまま終わりました。

そういえば、進学のときも

思い出したことがあります。

東京大学へ進むと決めたとき、父は反対していました。

理由は、関東は地震が多いから、というものでした。京都の大学に行って、神戸の家から通えばいいじゃないか。そういうことを、ずっと言っていました。

その数年後に、阪神・淡路大震災が起きました。

心配していた場所ではないほうで、起きたのです。

ついでに書いておくと、卒業後の進路についても、親の希望とは違いました。官僚か、放送局か。そのあたりを望んでいたのだと思います。

私が選んだのは、映画の仕事でした。

家業を継がなかっただけではありません。期待されていた道からも、外れています。

二階の仕事場に呼ばれた晩

震災の翌年、私は大阪の営業所から東京へ異動になりました。念願だった本社勤務で、しかも映画の配給に関わる仕事に就くことができた時期です。

同じ頃、父の会社は畳まれることになりました。

復興の需要を部分的に取り込んだあと、二、三年ほどで廃業しています。もっとも、その前から売上は細っていたのだと思います。長く付き合いのあった元請けや、その先の窓口が変わったことが大きかったようです。

私がそれを知ったのは、帰省したときでした。

晩ご飯を食べたあと、父が言いました。

「ちょっと話がある」

家の二階が、父の仕事場になっていました。

正確に言えば、そこは私の部屋でした。高校受験まで使っていた勉強部屋です。

私が家を出たあと、父はその部屋を仕事場にして、私が使っていた机を、自分のデスクにしていました。

その晩、机の上には、ノートと図面と、あちこちから届いた封筒が積まれていました。パソコンなどまだ一般的ではない時代です。電話だけが、いつの間にかプッシュホンに変わっていました。

部屋は、少し散らかっていました。

父は、私が勉強に使っていた椅子に座っていました。私はその隣にあった小さい椅子に腰かけました。右斜め前に父がいて、こちらを向いて話しました。

そこで、廃業のことを聞きました。

私はこう答えたと思います。

そうでしたか。これまでありがとうございました。おかげで、自分は最高の教育を受けることができました。

継がなかったことについては、何も話しませんでした。

父も、何も言いませんでした。

一人は始まり、一人は終わった年でした。

後悔は、していません

念のため書いておきますが、継がなかったことを後悔したことはありません。

あのとき継いでいたら、と考えたこともありません。

先細りしていくビジネスモデルだったと思いますし、母が言っていたことのほうが、事業としては正確でした。

ただ、一つだけ引っかかっていることがあります。

あの食卓で、誰も口にしなかった選択肢があった、ということです。

選択肢が、家族の中にしかありませんでした

父は「お前たちの誰かに」と言いました。

あの時点で、候補は三人に絞られています。長男の私と、弟が二人。

そして私たちは、その三人の中で考えました。自分がやるか、やらないか。誰かがやるのか、誰もやらないのか。

家族の外に人がいるかもしれない、という発想は、誰にもありませんでした。

父にも、母にも、私にもです。

候補が三人しかいなければ、答えは出ません

考えてみれば、当たり前のことです。

三人しか候補がいなくて、その三人がそれぞれ別の人生を歩き始めていたら、選べる答えは限られます。

しかも、断るという行為が、家族を断ることと重なってしまう。

だから、はっきり断らない。

親のほうも、はっきり頼まない。

「お前たちの誰かに」という言い方は、誰も指名しないぶん、誰も断らずに済む言い方でもありました。

やさしさだったのだと思います。

ただ、やさしさは、決断を先送りにします。

気学で見ているのは、適性ではありません

承継のご相談を受けるとき、私が拝見するのは、まず経営者ご自身です。

いまどのサイクルにいるのか。渡す時期に入っているのか、まだ自分が前に立つ時期なのか。

次に、後継者候補の方を拝見します。ただしこれは、その人に適性があるかないかを判定するためではありません。

どういう場所で力が出る人なのか。前に立つと伸びるのか、支えに回ったほうが力を発揮するのか。

前に書いたことと同じです。短所は、置き場所を間違えた長所です。

社長という席が、その人にとって力の出る場所なのかどうか。それは能力の問題ではなく、配置の問題です。

そして、ここからが本題になります。

置き場所の話なら、候補は家族の外にもいます

適性を判定する話であれば、候補者の中から選ぶしかありません。

けれど、配置の話なのだとしたら、考え方が変わります。

その席に合う人を、どこから連れてくるか。

間に誰かを挟むという手もあります。すぐに渡せないなら、一代だけ別の人に預けて、時間を稼ぐ。

役割を分けるという手もあります。所有と経営を分ける。名前を継ぐ人と、経営を回す人を、別々にする。

どれも、家族の中だけを見ていると出てこない選択肢です。

あの食卓に足りなかったのは、覚悟でも話し合いでもなかったのだと思います。

選択肢の数でした。

「それは、ご家族以外ではダメなのでしょうか」

関わらせていただいた期間は一年に満たず、その後を詳しく存じ上げているわけでもありません。ですので、これは私が知り得た範囲の話です。

五十年以上続く、同族の会社でした。

ご相談の入口は、承継の話ではありませんでした。お子さんの進路について、お母様からご相談をいただいたのが最初です。

ただ、お話を伺っていくうちに、ご夫婦が本当に悩んでおられるのは別のことだと分かってきました。

三代目を、どう育てるか。

年齢差が、大きすぎました

社長は六十代、後継者候補にあたるお子さんは、まだ十代でした。

遅くに授かったお子さんなので、当然のことです。ただ、経営という観点から見ると、この年齢差はそのままでは埋まりません。

お子さんが経営を担える年齢になるまで、社長が現役を続けられるかどうか。

ご夫婦もそれは分かっていて、対策を考えておられました。

間につなぎの経営者を入れて、その後にお子さんへ渡す。あるいは、将来の配偶者に継いでもらう。

よく考えられた案だと思いました。

ただ、拝見していて、一つ気づいたことがあります。

どの案も、最終的には血縁に戻っていました。

お伝えしたこと

私がお伝えしたのは、こういうことです。

いますぐ三代目へ渡すのは、時期として難しい。間に立つ経営者を入れることを、本気で検討されてはいかがでしょうか。

そして、もう一つ申し上げました。

それは、ご家族以外ではダメなのでしょうか。

返ってきた答えは、イエスでもノーでもありませんでした。

明確な返答は、いただけませんでした。

いま

その会社は、いまも代替わりしていません。

ただ、外から組織の形を拝見すると、現場への権限の移譲が、ずいぶん進んだように見えます。

私の助言が効いたのかどうかは、分かりません。一年に満たない関わりでしたから、そう言える立場でもありません。

ただ、あのとき返ってこなかった答えは、その後どこかで、ご自身の中で出されたのではないかと思っています。

この原稿を、私はいま糸島の家で書いています。歩いて十五分ほどのところに、海があります。

父が防波堤を築いていたのも、海でした。積み上げたものは、いまも神戸のどこかで波を受けているはずですが、それを守る会社のほうは残りませんでした。

継がれなかったから消えた、という単純な話ではないと思います。あの食卓で、選べるものが少なすぎただけです。

答えが返ってこないことと、考えていないことは、別のことです。

私の父も、あの食卓で、何も言わずに黙っていました。

あなたが思い浮かべている後継者の候補は、何人いますか。

その中に、ご家族ではない方は入っていますか。

渡す時期と、渡す相手。どちらも、選択肢が揃ってはじめて選べます。

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    よくある質問

    子どもに継ぐ気がなさそうです。どう切り出せばいいですか

    切り出し方を工夫する前に、選択肢を増やすほうが早いことが多いです。候補がその子ども一人しかいない状態で話を持ち出すと、相手にとっては受けるか断るかの二択になります。断ることが親子関係を断ることと重なってしまうので、答えが出せない。外の選択肢が実際にあると分かっていれば、子どもの側も落ち着いて考えられます。追い詰めないことが、結果として一番早いと思います。

    後継者に、経営者としての適性があるか見てもらえますか

    適性があるかないか、という形ではお答えしていません。そういう判定をすると、たいてい誰かを否定することになるからです。拝見するのは、その方がどういう場所で力が出る人か、です。前に立つ席が合う方もいれば、支えに回ったほうが力を発揮される方もいます。社長という席が合わないという結果が出たとしても、それはその人の否定ではなく、配置の話です。

    いつ渡すのが良い時期か、分かるものですか

    渡す側と受け取る側、両方のサイクルを拝見します。経営者が自分で前に立つ時期にあるのか、渡して次へ移る時期にあるのか。受け取る側が、背負える時期に入っているのか。ただ、時期が合っていても、選択肢が足りなければ決まりません。実際のご相談では、時期を読む前に、選択肢を数えていただくことのほうが多いです。

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